牠也在畫裡入席
文化獎傅朝卿教授說,涅槃圖裡,通常是不畫貓的。
因為傳說裡,釋迦牟尼即將入涅槃時,老鼠本要為佛陀運送藥物,卻被貓所擾,藥沒有及時送達。從此以後,貓便像一個遲到的角色,被排除在許多涅槃圖之外。
可是吉山明兆在1408年所畫的《大涅槃圖》,卻偏偏畫進了一隻貓。
據說,他作畫時,每天都有同一隻貓來到身邊,安靜地看守著他。有時,這隻貓還會從野外或山裡叼來作畫所需的顏料。於是明兆動了慈悲心,對牠說:「那我也把你畫進去吧。」
就這樣,一隻原本不該出現在涅槃圖裡的貓,進入了佛陀入滅的莊嚴場景。
很喜歡這個故事。
因為真正的慈悲,不只是遵守慣例;真正的慈悲,是在慣例之外,看見一個默默陪伴的生命。
所以這一次畫展,劉于新也把她的貓放進來。
牠沒有尋找顏料,也沒有挑選顏色。牠只是陪著她。許多熬夜的夜晚,燈還亮著,畫布還沒有完成,世界已經安靜下來,牠就在旁邊看著。有時看她,有時看畫,有時像是懂了什麼,又像什麼都不必懂,只是靜靜地在那裡。
人有時候很奇怪。
我們總以為陪伴要說很多話,給很多建議,做很多事情。
可是貓教我的,是另一種陪伴:不催促,不評判,不打擾,只是以一雙安靜的眼睛,守著你完成你該完成的事。
那便是一種正念。
正念不是一定要坐在蒲團上,不是一定要焚香誦經。正念有時只是深夜裡的一盞燈、一張還未完成的畫、一隻在旁邊不聲不響的貓。牠提醒我們回到當下:這一筆就是這一筆,這一色就是這一色,疲倦也是可以被看見的,孤單也是可以被陪伴的。
把牠畫進來,不是因為牠稀奇。
而是因為牠真的在那裡。
在許多創作的夜裡,在那些無人知道的停頓裡,在懷疑自己、又重新提筆的時刻裡。牠像一位小小的護法,不說法,卻以存在說法;不懂藝術,卻比誰都接近創作最真實的現場。
謝謝許多朋友深愛劉于新畫裡的貓。
你們看見牠,也許不是只看見一隻貓;你們看見的是陪伴,是安靜,是一個生命在另一個生命旁邊,不求回報地守候。
吉山明兆把貓畫進涅槃圖,是因為牠守護了作畫的人。
而劉于新把她的貓放進畫展,是因為牠也守護了她。
在佛陀入涅槃的圖裡,連一隻貓都可以被慈悲收留。
在我們的人生裡,祈願那些曾默默陪伴我們的生命,都有一個位置。
牠們不一定改變世界。
但牠們讓我們在世界裡,不那麼孤單。

その猫も、絵の中に席を得た
僧の話によれば、涅槃図には、ふつう猫を描かないという。
釈迦がまさに涅槃に入ろうとされたとき、使いの鼠が薬を運ぼうとした。ところが猫がそれを妨げ、薬はついに間に合わなかった。
そのため、猫は涅槃図から遠ざけられたのだという。
けれども、一四〇八年、吉山明兆の描いた《大涅槃図》には、一匹の猫がいる。
伝えられるところでは、明兆が絵を描いているあいだ、毎日同じ猫がそばに現れ、黙って彼を見守っていた。ときには野や山から、絵に必要な顔料をくわえて持ってきたともいう。
明兆は、その猫に向かって言った。
「では、おまえも描いてあげよう。」
こうして、本来ならそこにいてはならない猫が、釈迦入滅の厳かな場に入った。
私は、この話が好きである。
ほんとうの慈悲とは、ただ古い決まりを守ることではない。
決まりの外にいる、黙って寄り添う小さな命を見つけることなのだと思う。
だから今回の展覧会でも、私は自分の猫を入れた。
その猫は、私のために顔料を探してくれたわけではない。色を選んでくれたわけでもない。ただ、そばにいた。
幾晩も、夜更けまで灯りが消えなかった。
絵はまだ終わらず、外の世界は静まり、私は筆を持ったまま、疲れと沈黙の中にいた。
そのとき猫は、いつも近くにいた。
私を見ていることもあった。
絵を見ていることもあった。
何かを知っているようでもあり、何も知らなくてよいようでもあった。
人は、寄り添うということを、言葉だと思いすぎているのかもしれない。
慰め、助言し、何かをしてあげることだと思いすぎている。
けれど猫は、別の寄り添い方を教えてくれた。
急がせない。
裁かない。
邪魔をしない。
ただ、静かな目で、そこにいる。
それもまた、一つの正念である。
正念とは、必ずしも座蒲の上に坐ることではない。
香を焚き、経を読むことだけでもない。
夜更けの灯り、まだ乾かない絵具、描き終えられない一枚の絵。
そして、そのそばにいる一匹の猫。
それだけで、人はふと、今ここへ戻る。
この一筆は、この一筆。
この色は、この色。
疲れも、見つめてよい。
孤独も、抱かれてよい。
私が猫を絵の中に入れたのは、珍しいからではない。
その猫が、ほんとうにそこにいたからである。
誰にも知られない夜。
迷い、ためらい、また筆を取った時間。
猫は、小さな護法のように、言葉もなくそこにいた。
説法はしない。
けれど、その存在そのものが、すでにひとつの教えであった。
私の絵の中の猫を、愛してくださる方々に感謝している。
その猫を見るとき、人は一匹の猫だけを見ているのではないのかもしれない。
そこに、寄り添いを見ている。
静けさを見ている。
ひとつの命が、もうひとつの命のそばに、何も求めずにいる姿を見ている。
吉山明兆は、絵を守った猫を涅槃図に入れた。
私は、私を守ってくれた猫を、この展覧会に入れた。
釈迦の涅槃の場にさえ、一匹の猫が慈悲によって迎えられるなら、
私たちの人生にも、かつて黙ってそばにいてくれた命のための場所があってよい。
その命たちは、世界を変えたわけではない。
けれど、世界の中で私たちを少しだけ孤独でなくしてくれた。


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