聆聽台灣 #文化獎 #傅朝卿教授 介紹

日本書道的起源這些墨跡,若只是放在玻璃櫃裡,被標示為「國寶」、「書道起源」,是有點委屈它們的。

鑑真和尚於天平勝寶五年(753年)十二月抵達日本,渡海時帶來的,不只是紙與墨,是一種對「如何站立於世」的姿態。筆畫裡有唐人的從容,也有雙盲異鄉人更端正的用力,橫不敢輕浮,豎不敢傾斜。那是一種把身體與信念一併磨進筆鋒裡的書寫。日本書道始於一種被觀看、被學習的「正身」。鑑真和上失明後仍能書寫,並不是因為他「克服」了什麼,而是因為他早已不再依賴「看見」。正念的書寫,本就不是眼睛的事,是身體對當下的全然在場,呼吸在,腕力在,心不散。每一筆落下,都不為表現,只為如實完成。這樣的字,才站得住。

鑑真和尚依唐代書儀書寫

孝謙天皇在京都 唐招提寺 御筆,靜靜地懸在歷史一隅,幾乎不喧嘩,也是同一種安住。她臨的是王羲之的字體,本來就帶著魏晉餘溫、骨肉勻稱的書風。女性之手寫男性宗師的字,並沒有刻意顯示柔或剛,把它寫得「合理」。合理到讓後人忘了問一句:這是誰寫的。

日本的天皇,自古並不缺女人。只是後來的敘事,習慣把她們放在括號裡,像備註,像例外。孝謙天皇並不急著證明什麼,她留下了字。字比政令長久,也比宣言誠實。不急著在筆畫裡標示身份,不把性別寫進線條。不必證明自己,只需把這一畫寫穩。於是,字留下來了,人反而退到後面,讓時間慢慢辨認。

重要的是:是否有人,在某一個當下,把位置坐穩,把字寫完,把責任承住,而沒有被外界的喧譁牽走。歷史裡那些女性的存在,往往正是如此,沒有高聲宣告,卻長久地支撐著結構。

孝謙天皇在京都 唐招提寺 御筆

書道如此,歷史亦然。

當我們靜下來看,會發現真正的力量,常藏在那些不被特別標記的線條裡。不是所有重要的事,都需要被大聲說出;有些,只要被好好完成,就已足夠。

所以,當今日人們談起 #高市早苗,說她「成為首相是第一位女性」,這句話聽來,多少帶點現代人的健忘。第一位,往往只是「第一個被記得的」。女性的權力,早在唐代的筆墨、奈良的門額、御筆的行氣之中,悄悄存在過:不吶喊,不退讓。真正重要的,便不在最醒目的主筆,而在那些不被特別指出、始終撐住結構的線條。女人在其中非新事,只是久未被好好地凝視。

台湾文化賞受賞者・傅朝卿教授の講演に耳を澄まし、
日本書道の起源について思いを巡らせた。

これらの墨跡は、もしガラスケースの中に収められ、
「国宝」「書道の起源」と名札を付けられるだけなら、
どこか息苦しそうにも見える。

鑑真和上が海を渡って携えてきたのは、
紙や墨だけではなかった。
それは、「この世にどう立つか」という姿勢そのものだった。

筆には唐の時代のゆったりとした気配があり、
同時に、異郷に身を置く盲目の僧が、
一画一画を慎重に確かめるような緊張もある。
横は軽く流れず、縦は傾かない。
身体と信念とが、静かに筆先へと磨き込まれている。

日本の書道は、技法から始まったのではない。
「正しく身を置く姿」が、
見られ、学ばれたところから始まったのだろう。

鑑真が失明後も書を書くことができたのは、
何かを「克服」したからではない。
すでに彼は、「見る」ことに頼らなくなっていた。
書とは、眼の仕事ではない。
呼吸があり、手首があり、心が散らない
その一瞬に、全身が在ること。
ただそれだけで、一画は成立する。

その字は、主張しない。
しかし、確かに立っている。

京都・唐招提寺に残る、孝謙天皇の御筆もまた、
同じ静けさの中にある。
王羲之の書風
魏晋の余温を含み、骨と肉の均衡を保った文字を、
天皇は淡々と臨書している。

女性の手が、男性の宗師の字を書く。
そこに、柔らかさも、強さも、あえて示されない。
ただ「理にかなった」線があるだけだ。
あまりにも自然で、
後の世の人は、ふと問い損ねてしまう。
これは、誰の書なのか、と。

日本の天皇に、女性がいなかった時代はない。
ただ後世の語りが、
彼女たちを括弧の中へ押し込めただけだ。
孝謙天皇は、証明を急がない。
残したのは言葉ではなく、文字だった。

文字は、詔よりも長く生きる。
宣言よりも、正直だ。

筆画の中に身分を書き込まず、
性別を線に刻まない。
ただ、この一画を、揺らさずに書く。
すると文字は残り、
人はそっと後ろへ退き、
時間がゆっくりと、それを見分けてゆく。

大切なのは、
ある瞬間に、
その場所に静かに坐り、
書くべきものを書き、
担うべきものを担い、
外の喧噪に引きずられなかったかどうか
それだけなのかもしれない。

歴史の中の女性たちは、しばしばそうして存在してきた。
声を上げず、
けれど構造を、長く支えてきた。

書道も、歴史も、同じである。

静かに見つめると、
本当の力は、
強調されない線の中に潜んでいることに気づく。
すべての大切なことが、
大きな声を必要とするわけではない。
きちんと果たされただけで、
それで足りるものもある。

だから今日、
「初の女性首相」という言葉を耳にすると、
どこか現代の忘れっぽさを感じてしまう。
「最初」とは、しばしば、
「最初に記憶された」という意味にすぎない。

女性の力はすでに、
唐の筆墨の中に、
奈良の門額に、
御筆の行気の中に、
静かに在り続けていた。

叫ばず、退かず。

本当に大切なのは、
もっとも目立つ主線ではなく、
名指されぬまま、
構造を支え続けている線なのだ。

女性は、そこに、
ずっと在った。
ただ、長く、
丁寧に見つめられてこなかっただけである。

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