台湾の 文化賞 受賞者である 傅朝卿 教授 は、
竹渓書院 にて #鑑真和上 のことを語った。
その語り口は穏やかで、
まるで近所に住む年配の方の思い出話を聞くかのようだった。
けれど気づけば、千年消えることのない朝霧の一巻が、
静かに開かれていた。
鑑真和上は唐代の高僧、日本律宗の開祖。
「過海大師」と称され、生涯に六度の東渡を試み、
五度は阻まれ、あるいは官の制止に遭い、
あるいは暴風と巨浪に翻弄された。
《東征伝絵巻》巻二「狼溝浦遇難」。
それは美術史上、最初期の海難図とされる場面である。
容赦ない波、迫りくる嵐の中で、
彼は常に身心を願力に捧げ続けた。
人は問う。
なぜ、そこまでして渡ろうとしたのか。
おそらくただ一つ。
「心が揺るがなければ、海は道を譲る」
そう信じていたからだろう。
ある人の一生は、一盞の灯のようだ。
高く掲げられているからではない。
風雨の中でも、決して消えなかったからこそ、
人の道を照らす。
傅教授が語る鑑真は、
言葉の一つひとつが大地に触れるようで、
千年前の海の潮騒を、
今ここに呼び戻していた。
鑑真と弟子の 栄叡 は、揚州を発ち、
南へ下り、端州・龍興寺へと向かった。
その途中、栄叡は過労から病に倒れる。
自らが日本に渡れぬことを悟りながらも、
最期の力を振り絞り、師にこう告げた。
「どうか、戒律を必ず東瀛へお伝えください。」
絵巻に描かれた栄叡は、山中に静かに座し、
その佇まいは、まるで命の終わりの一瞬そのものだ。
その静寂は、大願が受け継がれる直前の深海のようだった。
別れとは、いつもそうだ。
去る者は山のように静かで、
残る者は山風の中で、涙に暮れる。
天宝十二年、藤原清河が再び遣唐使として来唐した時、
鑑真はすでに 両眼を失明 していた。
しかし、見える人以上に、彼は明るかった。
遠く日本からの請法の声を聞き、
彼は静かに言った。
「日本がなお戒律を必要とするなら、私はもう一度渡ろう。」
大明寺の境内では、江風が桜を揺らし、
花影が石段に落ちていた。
鑑真の歩みは、記憶そのもののように確かだった。
淡い色の直衣をまとった日本の使節たちが、
恭しくその後に続く。
時は前後し、
二つの国の運命が一本の糸で結ばれる。
その糸こそが、願力 だった。
五度目の東渡では、
風向きは乱れ、船は東海を十四日間漂流し、
さらに流され、海南・三亜へと至る。
果てしない波濤は、
無言の問いを投げかけていた。
「それでも、歩み続けるのか。」
鑑真は答えなかった。
ただ、前へ進み続けた。
三亜には今も「羅経坡」「大小洞天」などの地名が残る。
それは、彼がそこを通った痕跡だ。
願が通った場所は、
もはや単なる風景ではなくなる。
人々は衣・食・薬を差し出した。
絵巻に描かれた一人ひとりの顔には、
質朴で温かな光が宿っている。
荔枝を抱える者、水甕を捧げる者、
ただ静かに立ち微笑む者。
それは、最も静かな敬意だった。
龍泉寺から密かに出航した際、
鑑真が船に乗るや、
十四人の沙弥が小舟で追いかけてきた。
「大和尚、
はるか日本へ渡られると聞きました。
二度とお会いできないかもしれません。
どうか、慈悲深いお顔を、もう一度拝ませてください。」
船上の人々は合掌し、見送った。
鑑真もまた合掌し、
長い間、何も語らなかった。
その瞬間、
時間という海面がふと開き、
人の心の柔らかな底が、すべて露わになったようだった。
別れとは、生命の中で最も優しい修行である。
願が大きいほど、
漂泊は深くなるからだ。
それでも海風は、何度も鑑真を岸へと押し戻した。
諦めるよう勧める者もいれば、
涙を流す者、嗚咽する者もいた。
だが鑑真は一言も苦を語らない。
ただ振り返り、
袈裟を整え、
次の出発に備えただけだった。
絵巻に描かれた燃えるような紅葉は、
季節ではない。
それは心だ。
最も困難な中で、なお燃え続ける決意の色。
ついに船は薩摩(今の鹿児島)に着き、
太宰府へ迎えられた。
この唐の高僧は、
半生の漂泊をもって、
日本律宗の礎を築いた。
画師が描いた鑑真は、
語らず、動かず、
ただ合掌している。
山水は静まり、寺院は荘厳。
すべてが、時の深みから立ち上がったかのようだった。
彼が辿り着いたのは、
願力の円満であった。
ふと悟る。
鑑真の東渡とは、
一つの生命修行なのだ。
願ある者は、
見えずとも光に導かれる。
願なき者は、
晴天の下でも迷い続ける。
鑑真は「なすべきこと」を、
極限まで成し遂げた。
海さえ道を譲り、
千年後の人が、
なお絵巻の前で涙するほどに。
奈良・東大寺にて、
天皇・皇后・皇太子に戒を授け、
日本はここに、
真の律学の脈を得た。
京都に連なる無数の寺院も、
その瞬間から魂の系譜を宿した。
鑑真をかたどった 脱胎乾漆 の像は、
空心でありながら、
沈黙の奥に深い慈悲を湛えている。
鹿児島の石像の前では、
風さえも道を譲るように感じられる。
休憩時間、講堂は静まり返り、
ふと、資定法師 との間に、
言葉にならない因縁が横たわっている気がした。
訪れるたびに師に出会い、
今日は偶然、隣に座して、
千年前の海と願心の話を共に聴いていた。
その瞬間、
仏教文化を学ぶとは、
難解な理を理解することではないと知った。
物語が心に届いた時、
自分もまた、
海風にそっと吹かれたのだ。
その風には、
遥かな潮の音と、
消えることのない先人の光が、
確かに含まれていた。
在光中看見千年的渡海
鑑真和尚,唐代高僧,日本律宗初祖,被稱為「過海大師」。一生六度東渡,五度折返,或遭官府阻攔,或遇上飓風巨浪。
東征傳繪卷卷二: 狼溝浦遇難是繪畫史上第一幅海難圖的年代,浪濤無情,風雨逼人,他卻總是能把身心供養給願力。

繪畫史上第一幅海難圖
有人問,何以如此堅持?
或許,只因他相信心若穩固,海就會讓路。
有些人的一生,像一盞燈。
不是因為他們站得高,而是因為,他們在風雨裡從不熄滅。
傅朝卿教授今天講述鑑真大師,字字落地,像把千年前海上的潮聲重新喚醒。
鑑真與弟子榮叡,自揚州出發,一路往南,到端州龍興寺。彼時榮叡積勞成疾,在途中病倒。明知自己將不到日本,便拚著最後一口氣,只為向師父說一句:「一定要把律法帶到東瀛。」
畫卷中,榮叡端坐在山間,四周靜寂,一如他生命的最後時刻。那寧靜,是大願傳承前的深海。
人世的送別從來如此。離開的人安穩如山,留下的人卻在山風裡淚眼迷蒙。
天寶十二年,藤原清河再度率使節團前來大唐,彼時的鑒真已 #雙目失明,卻比看得見的人更明亮。他聽到遠道而來的請法之聲,便說:「既然日本還需要戒律,我便再走一次。」
彼時的大明寺,江風吹著山櫻,花影落在石階上。鑑真大師走過其間,步伐沉穩得像記憶。
日本使節穿著淡色「直衣」,恭敬隨行,宛若時光前後交錯,將兩國的命運牽成一線。
這一線,就是願力。
第五次東渡,風向乖戾,船在東海漂流十四天,後又漂出更遠,被捲到海南三亞。
浩瀚的波濤像無盡的考問:
「依然願意走下去嗎?」
鑑真沒有回答,他只是繼續向前。
三亞至今仍留著「羅經坡」、「大小洞天」等地名,那是鑑真留下的痕跡。
願力走過之處,風景便不再只是風景。
百姓餽贈衣食藥材,畫卷上每一張臉都帶著樸實的光。有人頂著荔枝,有人手捧水罐,有人只是站著微笑,那是最靜默的敬意。
從龍泉寺秘密出航時,鑑真剛踏上船,就有十四位沙彌划著小舟追上來。
他們說:「大和尚,您不辭辛苦東渡日本,路途遙遠相見無期,請讓我們再看一眼您慈祥的面容」船上的人都合掌送行,鑒真雙手合十,久久無語。
那一幕像時間的海面突然張開,讓所有人的心都露出柔軟底層。
離別,是生命裡最溫柔的修行。
因為我們知道,願越大,漂泊就越深。
即便如此,海風多次將鑒真推回岸邊。
有人勸他放棄,有人為他落淚,有人甚至悲痛失聲。鑑真大師不曾說一句苦,他只是回過身,把袈裟理整,準備下一次的出發。
畫卷中那棵燃紅的楓樹,不是季節,而是心。
是人在最艱難中仍燃起的決心之色。
當船終於抵達薩摩(今鹿兒島),再被迎至太宰府時,這位大唐高僧,用半生的漂泊,換得日本律宗的根基。

畫師筆下的鑑真,不語、不動,僅以合掌示敬。山水靜穆,寺院莊嚴,一切像剛從時間深處升起。他抵達的是他願力的圓滿。
忽然明白:
鑑真東渡的故事,是一種生命修行。
有願的人,即使看不見,也會被光引領。
無願的人,即使天氣晴,也會在原地迷路。
鑑真把「要做的事」做到極致。
做到海都會讓路,做到千年後的人,依然能在畫卷前落淚。
他在奈良東大寺,為天皇、皇后、太子授戒,讓日本自此真正有了律學的根基。京都那千座佛寺,從那一刻開始,獲得了靈魂的脈絡。
鑑真在唐招提寺的像「 脫胎乾漆」的空心造像,是以他本人為原型,沉默卻帶著慈悲的深度。鹿兒島上也刻著他的石像,風似乎都懂得繞著它走。

本人為原型,沉默帶著慈悲的深度
休息時間講堂安靜,忽然生出一種溫柔的感覺,自己與住持資定和尚尼之間,藏著什麼說不清的因緣。每一次到訪,常能遇見師父;今天,竟能坐在她身旁,一起聽傅老師講授千年前的大海與願心。

那一刻,覺得學習佛教文化,不是去理解什麼深奧的道理,是當故事被講到心裡時,
覺得自己也被海風輕輕吹了一下。
那風裡有遙遠的潮聲,有前人未滅的光。


發表留言